仇討紀行の最終回は讃岐國阿野郡南羽床下村の仇討、俗にいう「研辰の討たれ」の話である。この仇討は高松街道近くの羽床下村で文政10年(1827年)に実際に起こった事件であると云われている。仇討のあらましは以下の通り。
近江国膳所(現大津市)で刀研ぎ職人をしていた辰蔵(羽床出身)は、妻の不貞を知るや文政6年(1823年)8月に自分の妻とその不倫相手の膳所藩藩士の平井市郎次を刀で切り殺して逃亡した。平井市郎次の弟である外記と九市郎の兄弟二人は藩主に仇討を願い出て辰蔵を追って諸国を遍歴する中で、金毘羅大権現にも参詣して仇討成就の祈願をした。約3年9ヶ月の間さまざまな艱難辛苦を経た末に、ついに辰蔵の居場所を見つけ出し、金毘羅大権現にお礼参りと仇討成功を祈ったあと、文政10年閏6月、ついに辰蔵の郷里である讃州阿野郡羽床下村で復讐を果たした。その後、地元の庄屋が高松藩主に言上し、検視が行われた。高松松平家では事件の克明な記録として「綾南復讐記」の中の「消暑漫筆」に記されている(香川県立ミュージアム保管)。
この事件の史跡は仇討があった香川県綾歌郡綾川町羽床下に残っている。場所を地図で紹介する。この地図は上の高松街道の図中にて緑の枠で囲んだ部分およびその南側を表している。
①研辰の討たれの遺跡 県道278号沿いのうどん屋脇に石碑があり、ここが仇討現場と云われている。
②研辰(羽床辰蔵)の墓 研辰の討たれの遺跡から南へ約230ⅿのところにある。この一帯は長利(ちょうり)といい、室町時代に住んでいた「長利(ながとし)」という名の刀鍛冶に由来するといわれている。辰蔵も刀研ぎだったので因縁を感じる。
長利公民館前の碑は、昭和53年10月に地元の長利公民館落成を記念して設置されたものである。公民館の裏手は丘になっており、辰蔵の墓もここにある。
長利公民館裏手の丘にある辰蔵の墓は長い間無縁仏として置かれ苔むしていた。この仇討の発端は辰蔵の妻の不貞によるものであったため、地元では辰蔵に同情する人も多く、近年では長利自治会が昭和47年春に150回忌の供養を行ったとのことである。地元の古老の話では100回忌の供養も行ったとのこと。(地元誌 ふるさと羽床 より)
③浄覚寺 辰蔵の墓から200mほど東に浄覚寺がある。辰蔵が仇討時に使用した「二尺三寸の大刀」があると伝わる。
この事件は当時大評判となり、瓦版や芝居に取り上げられると共に小説や読本が書かれた。歌舞伎では仇討直後の文政十年(1827年)9月に大坂で「敵討高砂松」として上演され、お家騒動の出来事に恋や仇討を交えた人気狂言として、上方を中心に幕末から明治まで数多く上演されて人気を博した。小説としては明治28年(1895年)9月に出版された「敵討研屋辰蔵」(伊沢孝雄編、臥龍軒南子閲、此村欽英堂)がある。一方、大正14年(1925年)9月に木村綿花が「敵討高砂松」などを参考に辰蔵を道化た敵役に仕立てて発表したのが「研辰の討たれ」であり、それを平田兼三郎が脚色したものが歌舞伎「研辰の討たれ」である。これを二代目市川猿之助が大正14年(1025年)12月に歌舞伎座で上演して大評判となり、昭和初めに一大ブームとなった。この作品を元に2001年に野田秀樹が脚本を書いて演出したのが「野田版研辰の討たれ」であり五代目中村勘九郎(後の十八代目中村勘三郎)が歌舞伎座で初演、大ヒットとなりシネマ歌舞伎にもなった。さらに2025年には五代目中村勘九郎の長男の中村勘九郎の主役で歌舞伎座にて上演された。一方映画としても、昭和7年(1932年)に秋山耕作監督、高田浩吉主演で「研辰」が、また伊丹万作監督、片岡千恵蔵主演で「研辰の討たれ」が映画化されている。
これまで3回にわたり讃岐の仇討話を紹介して来た。凄惨な出来事である仇討が美談や華やかな舞台で演じられることで、あたかもそれが事実であったかのような錯覚を起こさせる事には注意が必要である。それらの影に隠された本当の仇討の真実に目を向ける事が必要である。仇討の成功率は数%と云われており、不首尾に終わった数多くの仇討にも思いを巡らせる事が必要ではないだろうか。
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