四国こんぴら歌舞伎大芝居と金丸座は金刀比羅宮と共に琴平観光の目玉である。平成6年(1994年)4月に行われた四国こんぴら歌舞伎大芝居第10回公演において、「花上野誉碑(はなのうえのほまれのいしぶみ)」という演目が上演された。この演目は田宮坊太郎の仇討物で、特に乳母のお辻が坊太郎のために金毘羅大権現に願掛けをして水垢離(みずごり)を取る「志度寺の段」が有名である。この時演じた役者は、7代目中村芝翫、2代目澤村藤十郎、9代目中村福助、4代目市川左團次ら有名人であり、大好評であった。
さて、仇討紀行2回目は田宮坊太郎の仇討話である。まずはあらましを紹介する。
紀州浪人田宮源八郎(または源八)は、丸亀藩士の土屋甚五左衛門に剣術の腕を見込まれ、丸亀藩に取り立てられることになった。ところが藩の剣術師範である森口源太左衛門が源八郎の仕官を妬み、闇打ちにしてしまった。その時、源八郎の女房は身重であったが、源八郎の死後に男の子を産んだ。そして、その子を坊太郎と名付け乳母のお辻と共に志度寺に預けた。孤児となり口がきけなくなった坊太郎の為に、乳母のお辻が回復を祈り必死に水垢離をして坊太郎を救う。その後坊太郎は江戸に行き、剣術の腕を磨いた後丸亀に戻り、寛永19年(1642年)に丸亀の山北八幡宮にて森口を討ち果たして、父の無念を晴らした。
丸亀街道の丸亀市中府町には坊太郎の父源八郎(源八)の旧居跡の石碑がある。また、丸亀市南条町玄養寺墓地には田宮坊太郎の墓(五輪塔)もある。墓の前にある献灯には歌舞伎役者の市川鯉三郎ら寄進者の名前が彫られている。
①田宮坊太郎墓所(丸亀市南条町)
②田宮源八の旧居跡(丸亀市中府町)
③山北八幡宮(丸亀市山北町)
その他に、さぬき市志度にある志度寺には「花上野誉碑」の舞台となった書院やお辻が水垢離したと言われる「お辻の井戸」がある。
田宮坊太郎の仇討の話は、親の仇を討った事件に金毘羅大権現の霊験談を合わせたものとなっており、話の中に金毘羅大権現が登場する御利生物語となっている。この物語を題材にした最初の歌舞伎上演は、宝暦3年(1753年)大阪三枡大五郎座での「金毘羅御利生幼稚子敵討」と云われている。これを元に浄瑠璃本が書かれ竹本座で上演された。天明8年(1778年)には浄瑠璃「金毘羅御利生花上野誉の石碑」(はなうえのほまれのいしぶみ)が江戸肥前座で上演された。以後、歌舞伎、浄瑠璃、文楽と公演の場が広がって行った。歌舞伎や浄瑠璃の「花上野誉の石碑」では乳母お辻が「南無金毘羅大権現」と云いながら水垢離をする「志度寺」の段が特に人気が高く、度々上演されている。
田宮坊太郎については讃岐人物伝(福家惣衛著 香川信報社 大正3年)の第十三篇 復讐に田宮小太郎として仇討の顛末が書かれている。この中で西讃府誌ではこの仇討話の信憑性が怪しいと書かれていることが紹介されている。そこで西讃府誌を見てみると、西讃府誌巻十四の人物欄に田宮小太郎の仇討が記されており、その中で、仇討話の内容については年暦、人名、場所等に事実と異なる点が多々あり、史実としては疑わしいと確かに書かれている。
田宮坊太郎の仇討話は江戸時代の寛延・宝暦年間(1748~1764年)には既にあったと云われている。これに金毘羅大権現のご利生(ご利益)を結び付け、当時流行していた仇討ち話の一つとして創られたものではないかとも考えられる。そして金毘羅大権現のご利益を背景にした年若い武士の孝行と仇討の話が世間の同情と人気を得ると、それに便乗した浄瑠璃や歌舞伎が作られ全国的な盛り上がりを見せて一大ブームとなった。このように考えると、田宮源八旧跡や坊太郎の墓、お辻の井戸などの史跡と云われるものも、物語に合わせて作られたものではないかと思えてしまう。そういえば、高松市国分寺町にある国分(又は国府)八幡宮にも田宮坊太郎の塚(墓?)がある。さらに、東京上野の寛永寺塔頭寒松院にも坊太郎の墓碑があるそうである。これは仇討の後、坊太郎が江戸上野の寛永寺の片隅で住んでいてそこで自害したという話があり、それに因んだ(ちな)ものではないか。これらの話はどこまでが本当なのかはわからない。
面白いことに、今回紹介した仇討話は全て金毘羅街道周辺で起こっている。金毘羅参りのついでにこれらの史跡に立ち寄った参拝人も多かったのではないだろうか。田宮坊太郎の仇討話の真偽はともかく、仇討話は日本人の心情に訴える点が人気の理由であり、芸能や読物など色々な形で今後も大切に残してゆきたいものである。
次回、仇討紀行の最後は「研辰の討たれ」を取り上げる。
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