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金毘羅街道仇討(あだうち)紀行(1) ~金毘羅街道松ヶ端の仇討~

四国こんぴら歌舞伎大芝居は琴平の春を告げる恒例の風物詩となっている。歌舞伎の演目の中には仇討(又は敵討)物があり、曽我兄弟の仇討、赤穂浪士の討入り、伊賀上野の鍵屋の辻の仇討ちが「三大仇討」として有名である。曽我兄弟の仇討は曽我物として「寿曽我対面」や「助六由縁江戸桜」として、赤穂浪士の討入りは「仮名手本忠臣蔵」、荒木又衛門の伊賀国上野の鍵屋の辻の決闘は「伊賀越道中双六」などの演目で上演されてきた。忠臣蔵は誰もが知っている有名な話である一方、曽我兄弟や鍵屋の辻の決闘などは年配の方は御存じの事と思うが、若い人は知らない方が多いのではないだろうか。

これら仇討は昔から日本人が大好きなテーマであり、古くは歌舞伎、浄瑠璃、文楽、講談から始まりその後、本、映画、TV、芝居などで演じられてきて、今でも大人気である。特に江戸時代には歌舞伎や浄瑠璃の主要なテーマであった。 そもそも仇討とは、武士が自分の主君や親兄弟などを殺した者を討ち取って恨みを晴らすことであり、中世からの慣習で有った。特に江戸時代には幕府が制度として法制化していた。明治4年(1871年)2月に和歌山県高野町神谷であった「神谷(かみや)の仇討ち」の後、明治政府が明治6年2月に「仇討ち禁止令」の太政官布告を出して、制度としての仇討ちはなくなった。しかし、明治13年(1880年)12月に「臼井六郎仇討事件」が東京で発生。原因は幕末に起こった事件であったが、仇討を行った時は既に仇討禁止令が出た後であった為、殺人事件として裁判にかけられた。結局、これが最後の仇討ちとなった。

前置きが長くなったが、今回は仇討の話である。琴平の観光振興のためのブログに仇討とは何事かとお叱りを受けるかもしれないが、いずれも金毘羅信仰が関わった仇討話の紹介なので容赦願いたい。さて、讃岐には分かっているだけで4件の仇討話がある。

1.観音寺の白縫(しらぬい)の仇討ち(平安時代) 場所:観音寺琴弾八幡宮(伊予土佐街道より5.7㎞北西) 評価:滝沢馬琴の椿説弓張月に出てくる源為朝の妻白縫の仇討話で創作である

2.田宮坊太郎の仇討(寛永19年(1642年)) 場所:丸亀市山北町(丸亀街道) 評価:有名な仇討話であるが創作が加えられた物語として信憑性に疑問がある

3.那珂郡松ヶ端の仇討(享和3年(1803年)、又は文化元年(1804年)) 場所:満濃町公文(丸亀街道沿い) 評価:実話と思われるが複数の関連資料で時期や人物等が異なっており、話が脚色や一部創作された可能性がある

4.阿野郡南羽床村の仇討(研(とぎ)辰(たつ)の討たれ)(文政10年(1827年)) 場所:綾川町羽床下(高松街道より1.5㎞南東) 評価:資料や記録から史実と考えられている

上記4件の仇討ち場所と金毘羅街道との位置関係は下の図のようになる。

これ等のうち、創作と考えられている1.を除いた234.を仇討紀行として3回に分けて取り上げる。今回は3.讃岐国那珂郡金毘羅街道松ヶ端の仇討について紹介する。この話は、日本義烈伝(福田宇中著、明治13年刊)と街談文々集要巻一(石塚典芥子、万延元年序)に詳しく書かれている。金毘羅街道松ヶ端とは現在の仲多度郡満濃町公文にあたる。日本義烈伝に沿った仇討のあらましは次のとおり。

丸亀藩士江崎文之進の息子宇平太は剣術の達人であり放蕩無頼の輩でもあった。文之進の仲間である高畠勘左衛門に金の無心をする上、勘左衛門から金品を盗むようになった。勘左衛門が宇平太を強く叱責した所、宇平太は勘左衛門を殺して逃走した。勘左衛門の息子八郎はこの時16歳であったが、父の仇を打つべく剣の修行に励んだ。享和3年(1803年)6月に金毘羅に参拝した時に宇平太を見つけた。これも金毘羅大権現の御加護と直ちにお上に仇討の許可をもらいその機会を伺う中で、金毘羅街道の松ヶ端で待ち伏せて斬り合いとなった。八郎は苦戦を強いられたが金毘羅大権現の御加護もあり無事宇平太を討取る事が出来た。この時八郎齢23歳であった。

二つの資料に書かれた話では、仇討の場所は同じでも、登場人物や仇討の時期が異なっている。このため「讃岐人物伝(福家惣衛著、香川新報社、大正3年(1914年))」、「敵討(平出鏗二郎著、富山房、1939年)」、「金毘羅街道松ヶ端の仇討」(延広真治、こと比ら(44)、金刀比羅宮、1989年)」などがこれらの話を比較、考察している。その結果、平出鏗二郎氏の「仇討」では街談文々集要の話を、福家惣衛著の「讃岐人物伝」では日本義烈伝の話を信頼できるとしている。仇討の顛末が分かれる中、地元の讃岐では仇討成就が金刀比羅宮のご神徳によるとの説を取る日本義烈伝の方が好まれている。これもこんぴらさんの地元ゆえと思われる。また金刀比羅宮図書館所蔵の「金刀比羅宮資料巻二十」や「金刀比羅宮神徳史巻二」にも日本義烈伝の寄りの仇討顛末が記録されている。

松ヶ端の仇討に関しては、公式な記録は見当たらず、書き物においても事件の内容が他の仇討ち話と混同していたり意図的に変えられていると思われる点があり、真相を把握することが困難であった。仇討場所や史跡についても、今回調べた範囲では残念ながら確認できなかった。また、芝居等で取り上げられた形跡も見つけられなかった。今後の調査を待ちたい。

次回の仇討紀行(2)では田宮坊太郎の仇討を取り上げる。

カテゴリー:歴史・文化  エリア:町外

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