お待たせいたしました。「石段だけじゃない、こんぴらさん!」の第2回です。こんぴらさんに祀られている 第75代天皇・崇徳上皇 について、少し深くお話ししたいと思います。もしよろしければ、第1回も合わせて読んでいただけると嬉しいです。
崇徳上皇は、平安時代後期の 1119年、第74代天皇・鳥羽法皇の第1皇子として生まれました。しかし、この誕生から既に悲劇は始まっていたのです。
崇徳上皇の母・藤原璋子は、第71代天皇・白河法皇に寵愛された後、その養女となり、鳥羽法皇の中宮となりました。そのため、崇徳上皇が生まれると、「この子は鳥羽法皇の子ではなく、白河法皇の子だ」という噂が流れ、崇徳上皇の運命は大きく狂い始めたのです。鳥羽法皇は、この噂を信じて崇徳上皇を「叔父子(おじこ)」と呼び、深く忌み嫌いました。白河法皇は鳥羽法皇から見れば祖父、崇徳上皇から見れば曽祖父にあたります。
白河法皇は、譲位後も院政を長く続けた策士でありましたが、その人物像にはさらに興味深い側面があります。(平清盛の父親であるという説もあります。ということは、崇徳上皇と平清盛は腹違いの兄弟です!)
崇徳上皇の父である鳥羽法皇も、また深い悲しみを抱えた方でした。わずか5歳で即位し、在位中、政務を執ることは許されず、白河法皇が実際の権力者でした。白河法皇は、鳥羽法皇が20歳になった時、わずか4歳の崇徳上皇への譲位を迫ります。白河法皇は、大人になった鳥羽法皇を嫌い、幼い崇徳上皇を即位させることで、実権を握り続けようとしたのです。鳥羽法皇は、心に積もった不満や鬱屈した思いを崇徳上皇への冷たい態度で紛らわしていたのではないでしょうか。
崇徳上皇が即位した6年後、白河法皇は崩御されます。これにより、ようやく鳥羽法皇は実権を握ることができたのです。そして鳥羽法皇は、崇徳上皇が20歳のときに譲位を命じ、自身の第9皇子である近衛天皇(第76代)を即位させます。
近衛天皇はこの時わずか3歳で、鳥羽法皇による院政が続きました。その後、近衛天皇は病弱であったため皇子女を持つことなく、17歳という若さで崩御されました。
崇徳上皇は、自身の第1皇子である重仁親王を次の天皇にと画策しましたが、鳥羽法皇の強い妨害により望みは叶いませんでした。次の天皇となったのは、鳥羽法皇の第4皇子であり、崇徳上皇の弟にあたる第77代天皇・後白河法皇でした。
こうして、崇徳上皇は自身の息子を天皇にする夢、そして院政を行って実権を握る夢をも打ち砕かれたのです。その悲しみは察するに余りあります。
そして、後白河法皇が即位した翌年、鳥羽法皇は崩御されます。崇徳上皇は、臨終の直前にお見舞いに訪れましたが、冷たく追い返されたと伝えられています。
この時、崇徳上皇はただ「息子として父親に会いたい」という思いだったのだと思います。人がどう噂しようと、崇徳上皇は鳥羽法皇を“自分の父”と信じていたのです。しかし、最後まで父親からの愛を受けることはありませんでした。
崇徳上皇が詠まれた「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」は、恋歌として知られていますが、私は、引き裂かれた父と子であっても、いつかは寄り添える時が来るように、という願いが込められているように思うのです。
崇徳上皇のこの深い悲しみは、1156年の保元の乱へとつながっていきます。
※ 法皇とは、天皇を譲位して上皇となった後、さらに出家した人物のことです。 なお、天皇のまま崩御された場合は譲位していないため、上皇にも法皇にもなりません。 (例:堀河天皇は在位中に崩御したため、上皇にはなっていません。)
緑郷(ろくごう)
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