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前門の狛犬、大門の龍

こんぴらさん、今も昔も人々が親しみを込めて呼ぶ金刀比羅宮は伊勢神宮と並び日本人の心のふるさとである。金毘羅大権現は古くから海の守り神として信仰を集めてきた。江戸時代には塩飽諸島の船人に篤く信仰されるようになり、塩飽廻船によって日本全国津々浦々に広がった。そして様々な生業の人々の間で信仰が広がり、各地で金毘羅講が組織されてこんぴら参りが盛んになった。金比羅大権現は江戸時代には讃岐の領主である生駒家、高松松平家、丸亀京極家に篤く保護された。特に讃岐高松藩の藩祖である松平頼重公(徳川家康の孫で光圀の兄)は金毘羅大権現を崇敬して18回も参拝した上、社領の加増や地位向上など物心両面で尽力し金毘羅信仰の中興の祖といわれている。慶安2年(1649年)には幕府朱印地330石となり、以後、大名から庶民まで多くの人々が参拝するようになったと言われている。 東京都文京区にある高松松平家下屋敷跡は金刀比羅宮東京分社になっており、金刀比羅宮と松平頼重公の関係が今も続いていることが分かる。

この松平頼重公が慶安4年(1651年)に新築寄進したのが大門である。

《大門》 金刀比羅宮参道の階段を365段上がってみると、そこで大きな門に出会う。見た目はお寺の山門の様であり、その大きさに圧倒される。この門は大門(おおもん)といい、金刀比羅宮の神域の入口に当たる総門となっている。その大きさ故に大門の名前が実にふさわしい。大門は二層入母屋造り、瓦葺きで、門の左右に弓を携えた武者像が見える。江戸時代は仁王門として門の左右に仁王像が置かれていたが、明治になって武者像に替えられたとのこと。

大門が新築されたのは慶安4年(1651年)で当時は仁王門と云った。天保14年(1843年)に修補(修理)されており、この時の作業には塩飽宮大工(棟梁 綾九郎衛門)が携わっている。金刀比羅宮の修理で塩飽宮大工の名前が出てくるのは天保8年(1837年)の松尾寺金堂(現 旭社)の再建以降である*。 (*:塩飽大工 高倉哲雄・三宅邦夫著 2017年 塩飽大工顕彰会発行より) 大門新築時の大工は不明であるが、塩飽大工の活躍は江戸時代初期から始まっており、大門建築時に参加していたとしても不思議ではない。その実績があったので、後の修補時に仕事を任されたのであろう。

《狛犬》 さて、大門の前、左右に石の狛犬が鎮座しているのが眼に入るだろうか。蹲踞(そんきょ)の姿勢の阿吽形で、右は阿形で雄の狛犬、左は吽形の狛犬でたぶん雌。体型は左右対称であり、耳は垂れており頭には狛犬特有の角(つの)が無い。

金刀比羅宮には百数十体を優に越える「獅子・狛犬」が有るとされ、姿形も様々である。蹲踞姿勢の阿吽形が主流であるが、玉を持ったり後足を上げたりする形の狛犬も見られる。神社の門は現世と神域とを分ける結界となっており、獅子や狛犬は神域への邪気の侵入を防ぐ門番の役目があるとされている。狛犬とは、中国から伝わった霊獣である獅子に似せた日本の想像上の動物である。2体一組で阿吽の形が一般的とされている。一般に「獅子・狛犬」と云うのは、向かって右側が口を開けた(阿形)の獅子、左側は口を閉じた(吽形)の狛犬を指す。狛犬は「角」があるのが特徴であるが、角の無い狛犬の組み合わせも多い。 狛犬を定義した文献として平安末期の公事手引書『類聚雑要抄』(注)によれば、「左獅子 於色黄 口開 右胡麻犬 於色白 不開口 在角」とある。すなわち「左側が獅子で色は黄色、口を開いている(阿形)、右側が胡麻犬(高麗犬、狛犬)で色は白、口は閉じており(吽形)、角がある」と云う事である。この左や右というのは、「天皇、祭神から見て」ということなので、参拝者から見れば、門や社殿に向かって左に吽形狛犬、右に阿形獅子ということになる。 (注)類聚雑要抄(るいじゅうぞうようしょう)とは、平安時代後期の寝殿造の室礼(しつらえ)と調度を記した古文書。この中に、宮中など神聖な場所を守護する調度品として「鎮子(ちんす)」を室内に置かれたとあり、これが狛犬のルーツといわれている。元々は獅子と狛犬の組み合わせが主流であったが、その後、狛犬同士の組み合わせや角の無い狛犬も多く見られるようになった。また、狛犬の材質も石のほかに金属製や陶器製の物も多々ある。金刀比羅宮の参道を歩く時には、何処に狛犬があるか、狛犬の姿形や材質はどうかと観察すると参道歩きの楽しみが増えるのでお勧めする。

さて大門の狛犬であるが、傷んではいるが狛犬の体全体には細かな細工が施されており、特に頭、首、足の周りの長い毛並みや尾の毛並みの彫刻が美しい。縦髪は少しウェーブがかかり胸元まで長く垂れており、頬と顎は巻き毛となっている。太い眉と大きな目、縁取りされた唇が特徴的で歯は上側のみの愛くるしい顔つきである。後足にも長い毛が生えており、尾は葉団扇形の立ち尾である。

右側の台石には河州の文字と寄進者の名前が彫られているが、年号は不明である。(一説には享和元年(1801年)建立との説もある)狛犬の体は一部が風化してひびが入り欠落している。これは狛犬が比較的やわらかく加工しやすい凝灰岩または砂岩で作られたためと考える。台石は風化の影響が少ない為、固い花崗岩で出来ているようだ。狛犬の姿は10種類以上に分類されており、大門の狛犬は大きなぎょろ目や二重に縁取りした唇などの特徴から「浪花型」と考えられる。さらに、台石にある河州の文字から河内国住人の寄進であることも裏付けとなる。

《扁額》 次に、門の前に立ち上を見上げてみると二層の屋根の間に「琴平山」と書かれた扁額が目に入る。これは有栖川宮熾仁親王の揮毫に依るものと伝わる。この方は幕末明治維新において重要な働きをした皇族で、戊辰戦争時に東征大総督となり江戸城無血開城にも関わった有名人である。

ちなみに松平頼重公も大門に「象頭山」の額を寄進していた。(町誌ことひら3より)

《龍の彫刻》 さて、門の中に入って頭上を見上げてみよう。梁と梁の間に波間を翔ける龍の彫刻が目に入る。白く大きな目が光る龍で躍動感あふれる宮彫りの彫刻である。正面だけでなく背面から見ても波と竜の身体が立体的に絡み合う姿を見ることが出来る。特に、竜の体が3次元的にせり出していることや上下の梁にまで彫刻が彫られていることに驚かされる。

新築時の彫工が誰であるかは不明であるが、天保14年(1843年)の修補時の彫工は塩飽大工の瀧宗兵衛であることが棟札や資料から判っている*。(*:塩飽大工 高倉哲雄・三宅邦夫著 2017年 塩飽大工顕彰会発行より) 我々が今見ている龍の彫刻は塩飽大工の瀧宗兵衛による作品の可能性がある。さて、大門に関して色々な視点から見てきたが、門一つにも歴史があり謂れがある。金刀比羅宮参拝の際に思い出して頂ければ幸いである。

最後に余談を一つ。

松平頼重公ゆかりの玉藻城に鞘橋があることをご存じでしょうか。この橋は本丸と二の丸をつないでおり、琴平の鞘橋のように屋根と側壁がある。但し、琴平の鞘橋と違って橋脚がある。名前の由来は琴平と同様に、形が刀の鞘のようであるためと云われている。但し、築城当時は普通の橋として作られたため、屋根や側壁はなく欄干橋と呼ばれていたとのこと。江戸時代半ばに今のような形になったことが資料*から判っている。現在の橋は1971年に架け直された。  (*:絵図『讃岐国高松城石垣破損堀浚之覚』 文政6年(1823年))

カテゴリー:歴史・文化   エリア:琴平、町外

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