「橋なんて、渡っちゃえば終わりでしょ?」
……はい、正直に白状します。少し前までの私が、まさにそう思っていました。
こんぴらさんへ向かう道すがら、川を越える橋はいくつもあります。でも私たちはたいてい、石段のことを考えながら、その上を通り過ぎるだけ。
ところが先日、その「ただの橋」を6本も見て回る、という不思議な一日を過ごすことになりました。
きっかけは、CVC中讃テレビさんの番組「歴史の『み』方」。琴平町の橋をテーマにした回の取材に、同行させていただけることになったのです。取材同行は初めての経験。今回は完全に野次馬として、カメラの後ろから見聞きしたことをレポートします。
カメラの後ろは、思っていたよりずっと面白い
まず驚いたのが、「一本の橋を撮るのに、こんなに時間をかけるのか」ということでした。
カメラマンさんがカメラを構え、レポーターさんが立ち位置を決め、ナビゲーターの方が説明の言葉を選ぶ。渡るだけなら数十秒の場所で、何十分もかけて「どう見せるか」を練っていくのです。
そして何より面白かったのが、橋にまつわるお話でした。名前の由来があり、洪水と闘った記録があり、そこを渡った人々の暮らしがある。橋は、渡るためのものであると同時に、まちの記録そのものだったのです。
なかでも驚きだったのが、「この川の橋は、大水のたびに流されていた」というお話でした。
橋が架かっているのは金倉川(かなくらがわ)。言われてみればこの川、驚くほどたくさんの橋が架かっています。流されては架け直し、流されては架け直し。その繰り返しの上に、いまの何気ない風景があるわけです。
その象徴が、祇園橋(ぎおんばし)でした。
記録によると、弘化4年(1847年)7月の大洪水で、当時は土でできていたこの橋が流失。ところが同じ年の10月には、もう架け直されているのです。わずか3か月。当時の人たちがこの橋をどれほど必要としていたかが、その速さから伝わってきます。
というのもこの橋、徳島から讃岐山脈を越えてきた参拝客が歩いた阿波街道に架かる橋。江戸時代、阿波街道でこの川を渡れる唯一の橋だったといいます。
祇園橋:橋脚に引っかかった流木が、この川がいまも増水することを物語っています)
ちなみにその日は少し曇り空。それでもまだまだ暑く、私は早々にへとへとでした。ところがナビゲーターさんとレポーターさんは、カメラが回り始めた瞬間、そんなそぶりを微塵も見せない。……プロ根性というものを、間近で見せていただきました。
橋なのに、屋根がある。しかも脚がない
今回めぐったなかで、ひときわ異彩を放っていたのがこちらです。
緑青色の屋根をいただく鞘橋:橋というより、小さなお社のような佇まいです
鞘橋(さやばし)。はい、屋根があります。
しかもこの屋根、刀の鞘(さや)のような形が、そのまま名前の由来になったのだそう。木造・銅板葺きの唐破風造という、なんとも贅沢なつくりです。
さらに驚いたのが、橋の下に橋脚がないこと。川の上に浮いているように見えることから、別名「浮橋」とも呼ばれます。長さ23.6メートル、幅4.5メートルを、脚なしで架けているのです。
この橋もまた、洪水のたびに流されてきました。いまの橋は明治2年(1869年)、阿波の人たちの寄進によって再建されたものだそうです。……さきほどの祇園橋といい、この川の橋には徳島の影がちらつきます。
もともとは今の一の橋の場所、つまり門前町のど真ん中にありました。誰でも渡れて、橋の上には甘酒や飴を売る店が並んでいたといいます。それが明治38年(1905年)、行進のために屋根が邪魔になるという理由で、現在の神事場の横へまるごと引っ越し。
いまは国の登録有形文化財となり、一般の通行はできません。年に数回、御田植祭や例大祭の神事のときだけ、神職や巫女の行列が渡る橋になっています。
渡れないのに架かっている橋、というものが、この世にはあるのですね。
黄色い橋と、赤い橋と、宮司さんの直筆
川沿いを下っていくと、今度は色で呼ばれる橋が現れます。
栄橋(さかえばし)は、黄色い欄干から通称「黄橋(きばし)」。もとは明治35年(1902年)に地元の組合が自前で架けた木の橋で、のちに町へ寄付された民間発のインフラです。
もう一本、玄孝橋は赤い欄干で「赤橋(あかばし)」。こちらは近くに住んでいたお医者さん山内玄孝(やまうち げんこう)さんのお屋敷裏にあったことが名前の由来だそう。人の名前がそのまま橋になっているのが、なんとも琴平らしい。たもとには、洪水で流されないよう橋をつなぎとめた石柱「もやい石」が今も残っています。
そして最後が、こちら。
大宮橋の親柱:刻まれた「大宮橋」の文字は、金刀比羅宮の宮司の直筆だそうです
大宮橋(おおみやばし)。大正11年(1922年)、琴平駅の移転にあわせて、駅から参道へ向かう新しい大通りの入り口として架けられました。
この親柱に刻まれた「大宮橋」の三文字、なんと金刀比羅宮の宮司さんの直筆なのだそうです。
2010年の耐震改修で橋そのものは架け替えられましたが、このとき地元のガイド団体の方々が「宮司の筆だから残してほしい」と県に陳情し、親柱の一部が保存されました。
……つまり私がなんとなく写真に撮ったこの石柱は、誰かが「残してくれ」と声を上げたから、そこに立っているわけです。知ってしまうと、もう「ただの石柱」には見えません。
まとめ:答え合わせは、9月のテレビで
今回の取材の模様は、CVC中讃テレビ「歴史の『み』方」9月放送分で紹介される予定です。私が見聞きしたのは、番組で語られることのほんの入り口にすぎません。
次にこんぴらさんへお越しの際は、川を渡るときに少しだけ足を止めて、親柱に刻まれた名前を読んでみてください。
黄色い欄干、赤い欄干、そして屋根のある橋。「渡っちゃえば終わり」だったはずの橋が、そこから急に、まちの物語を語りはじめるはずです。


