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日柳燕石は呑象楼で盃の中に象頭山を見たか

皆さんは琴平町榎井にある呑象楼(どんぞうろう)をご存知だろうか。 呑象楼は幕末の勤王博徒である日柳燕石の住まいとして有名である。史跡は2ヶ所有り、一つは榎井六条の興泉寺の南西角にある「呑象樓の跡」と彫られた石柱、もう一つは榎井小学校の西北角にある建物である。呑象楼は天保年間(1830~1840年)に高松街道沿いにある興泉寺の住職廓栄師が隠居所として建てたものと伝わる。日柳燕石は29歳の時に生家加島屋を売却し、以後2度転居を行った後嘉永6年(1853年)37歳の時に呑象楼に移り住み、以後12年間をここで過ごした。燕石が亡くなった後は老朽化が進んだが、地元の有志により昭和29年に現在の榎井小学校北西角に移築された。この時、1階部分が改装されたため県の文化財指定を除外されている。               移築前の呑象楼は以下。

榎井六条の興泉寺南西角の呑象楼跡(奥に見える建物は興泉寺の鐘楼)

呑象楼跡の石碑(上の写真の右隅にある)

移築後の呑象楼は以下。

燕石は詩人としてまた勤王思想の持ち主として全国の文人墨客や勤王家と交流すると共に、幕府に追われた高杉晋作らを呑象楼に匿ったと伝えられている。現在の呑象楼には燕石ゆかりの書画の他、追手の目を眩ませるための色々な仕掛けが施されており、格好の見学スポットである。週末、祝日はガイドさんの説明もあるのでおすすめの見学スポットである。

さて、呑象楼の名の由来は、当時珍しかった2階の西向き窓から、盃の酒に映った象頭山を飲み干す気概を示して付けられたと伝えられているが、果たして燕石は呑象楼の2階で盃に象頭山の影を浮かべて酒を楽しむ事が出来たのだろうかという疑問が湧いてきた。そこで検証することにした。

呑象楼跡から象頭山を見た現在の風景は以下。

象頭山の高さは538m、御本殿は現在と同じとして236m。象頭山から興泉寺迄の水平距離は1.42㎞。呑象楼2階の高さは約3.5m程度と思われるが象頭山の高さに比べると無視できるとして計算する。その結果、呑象楼2階から見た象頭山山頂の仰角は22.3°、御本殿の仰角は9.6°となった。 

盃に映った山影を見る事が出来るのは、盃の酒に反射した光が目に入る時である。この時、盃への入射角と反射角は同じとなる。

酒を呑む時の盃を持つ手の位置は、口の高さすると、その時の目、口、手の関係は以下の様になる。

燕石は小柄であったとの記録がある(*)ので、口~目の距離を5~6㎝とすると、象頭山山頂が見える場合は、盃を持った腕は口から13~16㎝離れた位置となり、御本殿が見える場合は、30~36㎝となる。これらは、燕石が実際に動作可能な範囲と考えられる。(燕石よりも一回り大きい人の場合、口~目の距離を7~8㎝とすると腕~口の距離は、各々18~21㎝、42~48㎝となる)

結論として、燕石の場合は盃の中の景色を堪能しながら酒を嗜む事が出来た。燕石よりも少し体の大きい人の場合(高杉晋作など)は、象頭山の景色は見る事が出来たが、本殿の景色を見るには腕を少し伸ばす必要があったと思われる。

(*):燕石の身長は五尺あるかないかの短躯で痩身、顔は長く、目は細長い、鼻は高いが、少々痘痕がある。短躯だけは自身で承認していたといい、自畫(画)像の自題にもそれを書いている。気になっていたと見えるが、身体の小は肝の大で相殺して書いたところに面白さがある。(田村栄太郎『日柳燕石』春陽堂、1939年より)

カテゴリー:歴史・文化  エリア:榎井

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