特派員ブログ

「神護と人力 琴陵宥常宮司」

皆さんは毎年海の日(7月の第3月曜日)に金刀比羅宮で「こんぴら海上安全特別大祈願祭」が開かれる事を御存知だろうか。7月11日付けの朝日新聞朝刊の天声人語に、日本水難救済会の設立に尽力した金刀比羅宮宮司の話が出ていた。宮司の名前は書かれていなかったが、この人物に興味をひかれたので調べてみた。日本水難救済会を手掛かりに調べた結果、この方は金刀比羅宮の琴陵宥常(ことおかひろつね)宮司といい、今日の金刀比羅宮の礎を築いた功労者であることがわかった。早速参拝がてら現地に行ってみた。一の坂の参道を約274段上った左側に高津商店がある。

その反対側の広場入口に琴陵宥常銅像と書かれた立札があり、横に海難救助関連の装備品などを展示したガラス張りの建屋が有った。広場を奥に進むと木々の枝葉に囲まれて琴陵宥常宮司の銅像があった。

琴陵宥常宮司と日本水難救済会との関係について調べてみた。 金刀比羅宮は往古には大物主神を祀り琴平宮と称したが、その後本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)の影響で神仏習混淆の寺院となり 松尾寺金光院の金毘羅大権現として広く知られていたが、明治初年の神仏分離令により神社となった。琴陵宥常宮司は松尾寺金光院金毘羅大権現の最後の別当職で「宥常(ゆうじょう)」と名乗ったが、神仏分離令により金毘羅大権現を神社化して金刀比羅宮とし、自身も還俗して名前を琴陵宥常(ことおかひろつね)に改名した。しかし初代宮司にはなれず社務職として新生金刀比羅宮の改革に邁進する中で、本宮再建や琴平山博覧会の開催などを行い金刀比羅宮の礎を築いた。その後、明治19年(1886年)4月になってようやく第2代宮司に任命された。           

同じ年の明治19年(1886年)10月に起こった英貨物船の海難事故(ノルマントン号事件)に心を痛めた琴陵宥常宮司は、思案に暮れる中で明治20年(1887年)に出版された黒田清隆の欧州視察旅行記「環游日記」と出会いこれをを読み、ロシア水難救済会が紹介されているのを知った。「環游日記」のロシア水難救済会の記述部分は以下。

              

           

海の守り神を謳う金刀比羅宮として海上安全の祈願を行うと共に日本にも海難事故救済制度が必要と考え、その創設を目指して私財も投じて奔走したと伝えられている。これらの努力と働きかけの結果、明治22年(1889年)に「大日本帝国水難救済会」の創設が実現した。これは琴陵宥常宮司が「神護は人力を尽くして初めて得られるものであり、徒に神力に頼るのは神への敬意を失する」との信念で取組んだ結果と言われている。大日本帝国水難救済会は現在では公益社団法人日本水難救済会と名前を変えて海難救助や洋上救急活動を支える事業を続けており、創設当初の信念が貫かれている。冒頭に紹介した天声人語ではこの出来事に触れた後、水難事故の予防と事故発生時の対応について書かれていた。本格的な夏を迎えるに当たり水難事故防止を啓蒙したタイムリーな記事であった。参道に戻り更に20段上がった294段目には、左側に五人百姓の笹屋商店があり右側には掃海殉職者顕彰碑と書かれた案内が有る。

         

ここから大門はもう目の前であり、大抵の観光客は大門目指して通 り過ぎてしまう場所である。掃海殉職者顕彰碑と書かれた案内の先には、文化11年6月と彫られた燈籠2基に挟まれて掃海母艦「はやせ」の主錨が置かれている。「はやせ」は湾岸戦争後のペルシャ湾の機雷処理に活躍した掃海艦である旨の説明がある。

更に奥へ進むと第2次世界大戦後に日本周辺の機雷除去作業に従事する中で殉職した79名を慰霊・顕彰する掃海殉職者顕彰碑が建っている。

これらの取組みも「海の守り神であるこんぴらさん」と、琴陵宥常宮司の「海の安全と人を尊ぶ精神」が今に生きている証である。この辺りは朝日が岡と言われており、裏参道に続く道があるものの観光客は全く見当たらず別世界のように静まり返っている。       

大門を通り桜馬場を過ぎた400段目付近を右に入った所にオレンジ色の建物、高橋由一館がある。高橋由一が琴平滞在中に書いた琴陵宥常宮司の絵はその後所在が分からなくなっていたが、2001年に宮司の屋敷で偶然発見され、現在は同館で展示されているので一度ご覧になられてはどうだろうか。 高橋由一画 琴陵宥常像は以下。

琴陵宥常宮司の銅像は以前目にしたことは有ったが、特に関心を持たなかった。今回、海の日に「こんぴら海上安全特別大祈願祭」が開かれることを知り、それをきっかけに多くのことを知ることが出来た。皆さんも、お店の買物ついでにこれらの場所にも立ち寄ってみては如何でしょうか。 

カテゴリー:歴史・文化  エリア:琴平

こんぴらだんだん